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食肉となる動物との距離感、うさぎが好物だった祖母 [日々の出来事]

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食肉加工場での家畜の屠殺方法は安楽死ではないそうだ。電気orスタニングガンで失神させ、放血させる。

一瞬の苦痛があるのかどうかは分からないが、屠殺場に運ばれる間、家畜達はいつもと違う様子に不安を感じる事はあるだろう(”食肉センター 見学”で検索すると詳しいレポート記事が出てくる)。

以前、”ちはるの森”というブログでちはるさんという方が、自分で狩ったうさぎを自分で屠殺し捌き(さばき)、その画像をブログに載せて炎上した。ブログ記事には「この先にはうさぎの辛い画像が出てきます」と前置きをしている。

うさぎはかわいい味がした。うさぎ狩りと解体してきたよ。- ちはるの森(ナイフで屠殺している画像有り)

コメントは肯定する意見が多いものの「鬼畜」「神経が分からない」「お前が死ね」という感情的で稚拙なコメントも多い様子。

この記事を見て、以前に大阪の小学校で命の授業が行われ話題となった事を思い出した。3年間豚を家畜として飼育し、生徒が卒業する時にその豚(Pちゃん)を食肉にするか下級生に世話を引き継いでもらうか話し合い、結果Pちゃんは食肉に加工され、それを生徒達で食べた。

この授業は賛否を呼び、教師は責任を取り退職したそうだ。

7年前に他界した私の祖母は明治44年生まれだった。祖母が生きた時代は自宅でうさぎを飼い、丸々と太らせて正月に食べていたそうだ。そのうさぎの味は絶品で「あなたにも食べさせたい」と小学生の私によく語っていた。

いつの日か祖母が「うさぎの肉を買ってきた」と言って私に串刺しになった焼き鳥のようなものを差し出してきた。それが本当にうさぎの肉なのか、小学生の私でも疑いたくなるほど見た目は普通の焼き鳥だ。

そもそもうさぎの肉をこうして売っている肉屋があるのだろうか?と不審に思いながらも食べてみた。鳥のササミのような淡白な味で、普通に美味しかったが祖母が言うほど絶品ではなかった。

祖母の生きた時代は、当然今とは食糧事情が異なる。田舎暮らしだった祖母にとって、うさぎの肉はご馳走だったのだろう。

それに比べて今の日本なら、私達が自ら屠殺を経験する必要がない。だから、動物を殺して食べるという行為にショックを受けるのは当然ありえる事だと思う。

そのくらい屠殺というのは私達の生活からかけ離れていて、まるでファンタジーのようなものだ。動物を殺す事は私達の代わりに業者が行ってくれる。屠殺がどこでどのように行われているのかも詳しく知っている人の方が少ないだろう。

私達は屠殺を知らなくても生きて行ける。なので自ら学ばなければ知る方法は無いが、知る為には残酷な場面も目にしなければならない。

それを残酷と感じるのは屠殺があまりに非日常だからだ。うさぎの味が忘れられなかった私の祖母なら、きっと残酷とは言わないだろう。

加工されて売っている肉と生きている動物が同じである事は理屈では分かっているつもりでも、普段から自分で捌いていなければ別物のように思えてしまう。

動物の心臓、肝臓、腸、舌は、私達にとってはハツ、レバー、ホルモン、タンなのだ。加工されてしまえば、それがどの部位なのか分からない事さえある。

そんな生活を送っていれば、生き物を自分の手で殺して食べる事を可哀想だと思うのは、正しいか間違っているかは別として至ってシンプルで素直な感情だと思う(もちろん死ねや鬼畜などとコメントするのはもってのほか)

ライオンがシマウマを追いかけている映像を見れば「逃げて!」と思うのは普通の感情だ。でもその裏にはライオンが餓死する可能性も存在している。そこを無視してシマウマばかりに感情移入してはいけない。

自ら屠殺を経験する必要はなくとも、行為や方法については自分の感情とは別にして、知っておくべき事だ。学ぶには文字や絵だけではピンとこない。ちはるさんのブログは「生き物を殺して食べている」という事の意味を考える良いきっかけになると思う。






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タグ:屠殺
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